千代大海が千代の富士と初対面時のど迫力!母親の一言で人生大逆転
横綱タロウ横綱タロウ

現在の九重親方の元大関の千代大海は若い時は相当なワルだったようだねえ

としちゃん丸としちゃん丸

そうですね、暴走族のリーダーでヤクザからスカウトされたこともあるんだって

関取くん関取くん

でも、お母さんの必死の説得に応じて相撲をやる気になったんですよ

としちゃん丸としちゃん丸

そして一番強い千代の富士のところに行ってド迫力に驚いたんだとか、そのあたりを詳しくご紹介しますよ

大相撲ファンならだれでもご存じの元大関の千代大海は現在、九重部屋
の親方ですが、昭和の大横綱の千代の富士の一番弟子です
千代大海は少年時代に悪党としても有名なエピソードがありますが
少年時代は不良で暴走族で母親を大変困らせたり、ヤクザとけんか
もしたようです

そんな千代大海が角界に進み千代の富士と初めて出会ったときは
震えが止まらなかったと言います。
そこで今回は千代の富士のヤクザ以上のヤバすぎる迫力について解説します
それではどうぞご覧ください

千代大海は幼少期から運動神経抜群

千代大海は九州の大分の出身で生年月日は1976年4月29日
生まれたのは北海道千歳市で母親の美恵さんが33歳の時でした
本名は須藤龍二で旧姓では廣嶋龍二といいます
出生地は北海道千歳市でその後に九州に移動しています
龍二さんは3人兄弟で姉の理恵さんと兄の龍也さんがいます

以下、千代大海を龍二さんといいますね

龍二さんが生まれたときは3500グラムでしたが、翌日にはミルクを
50ccも飲んで、まだ飲み足りない顔をしていたそうです。
看護婦さんが「この子は大きくなるわ」とびっくりしたらしいですよ

龍二さんは小さいころから体が大きくて
保育園のころですでに体重は50キロありましたから、写真を
見ると他の子供とは頭一つ違いましたlでかいですね
幼いころから体が大きくてわんぱくで
5歳のときに大きな石を投げてタクシーのフロントガラスを割った時は
母親と一緒にどれだけ頭を下げたことか、、

龍二さんが柔道を始めたのは3歳でした。父が柔道家だったからで、
オリンピック候補にまで残るくらいの選手で、警察署の師範として
柔道を教えていました。
そんな父の下で、小さい頃から柔道のスパルタ英才教育を受けました。
しかし、母は龍二さんが5歳の頃に父と離婚して北海道から大分に
帰りました、

龍二さんの小中学時代のあだ名は「ブッチャー」でいかにも強くて巨漢の
イメージですね、
小学校から帰ると毎日のように近くの海岸で友達とドッジボールを
楽しんでいました。
柔道は小学校に上がるときに辞めて、サッカー部に入ったんです。
小学3年生までサッカー部、4年生から1年だけ野球部、そして5年生から
また柔道を始めたのですが、わずか1年のキャリアで柔道の
全国大会で3位になりました。中学3年生の時は年齢をごまかして
極真空手の九州大会に参加して3位に入賞しています
柔道や空手で体格は格闘家の体になっていたんです
そして、体重は100キロ以上あるのに
走るのも早いし、泳ぐのだって誰にも負けないくらいの素晴らしい
運動神経の持ち主でしたl
中学卒業後の龍二さんは体はでき上っていました
空手の九州大会の2014年12月の体格は
年齢16歳、身長180cm、体重120kg、白帯でした

千代大海(廣嶋龍二)のやんちゃな小中学時代

千代大海(龍二さん)は体が大きくて幼少期、小学時代からやんちゃでした
そして子供より大人と遊ぶ方が楽しかったようです
野球はピッチャーか三塁手をやりたかったのですがキャッチャー
をやらされ、サッカーはフォワードを希望したがゴールキーパーを
やらされたためやめました。自分の意見が通らないと嫌に
なっちゃうんですね、このころからやんちゃだったんです

龍二さんの中学校は大分市立碩田中学校
おおいたしりつ せきでんちゅうがっこうです

小学生で高校生を投げ飛ばす力があったようで中学時代には
10人以上の高校生とひとりでけんかしても勝ってしまうくらい
めちゃくちゃ強くて喧群は誰もかなわなかったのです

中学時代はシンナーで遊んでいたし、たばこは小学5年生から
吸っていたそうです

中学時代は毎日喧嘩ばかりしていたそうで学校には行かない日が
続きましたが、柔道や空手をしていたので礼儀正しくて弱い者
いじめはしなかったようですし、先生に逆らうことはなかったようです
中学時代はめちゃくちゃ荒れていましたが、卒業式には涙を流すシーンも
残されていましたから、龍二さん本当は心優しい方なんでしょう

龍二さんは九州でもナンバーワンの勢力の暴走族「十二単」を率いており、
暴走族のリーダーで九州一のワルだったし、さらにヤクザ数人と喧嘩した所、
相手のヤクザに気に入られ、スカウトされたことがあったのです。
このように数々の武勇伝を残しており、警察にも要注意人物として
警戒されていました。
大分の隆二といえば知らない人はいないほど有名でした
佐賀県出身で同年代の、はなわ曰く「大分の龍二と言えば僕でも
知っている位の凄く有名な人だった」と話しています

中学3年生の時には大分東明高等学校を担任の推薦で受験するも
不合格となります


「柔道の特待生でぜひ」という高校も4、5校あったけど断るし
大相撲からもいくつか誘いが来ていたが「勉強は大嫌いだ」
「相撲は格好悪い」と断り、幅広ズボンに、派手なシャツという
スタイルが気に入って中学卒業後はとび職をして働きます
でも体が重いので高いところには上げてもらえず力があるので
人が1本しか持てない鉄パイプを4本くらい持たされると
仕事をさぼりだします。
職場の親方から「隆二が来ない」と電話がありアパートを見に行くと
シンナーをすって友人ら5人とヘロヘロになっていたこともあるのです

SPになりたかった千代大海(廣嶋龍二)


中学卒業してから、龍二さんは空手の師範から
「君の持って生まれた運動神経や感覚は尋常じゃない。犯罪心理を
学びながら、シカゴに行ってSPになる修行を積んでこい」
と言われたのです。まともに学校に通っていなくて龍二さんは
柔道や空手もしていて将来は格闘家や体を生かす仕事をしようと思い
SPになるのが目標になったのです

千代大海(廣嶋龍二)が相撲を始めたきっかけは

平成4年の10月、龍二さんは学校も行ってないし
体で稼ぐことを考えていたようで半年間くらいは
本気でSPになるためにシカゴに行く準備をしていたのです
母は「自分で考えて行動しなさい」という教育方針で
そんな母が龍二少年は大好きだったのです

シカゴでSPになりたかったのですが行く1週間前に
母親に報告しようとこたつに入って座り、
「将来について話があるんだけど」と母親に思って
いることを話しました。「俺はSPになりたい。
スポーツ選手や政治家のボディーガードとして、
正義の力で悪を制していきたいんだ」と話すと

家業が魚屋だったお母さんが知らないうちに背後に来て
涙を流していうのでした。「私の手の届かないシカゴに
行ってもし、銃で撃たれて死ぬようなことになるのなら、
今ここで私がアンタを殺して私も死ぬ」となんと切れ味鋭い
出刃包丁を龍二少年のクビの頸動脈に突き付けてきたのです!


今まで何十回補導されても1度も怒らなかった母親が涙を流して
龍二さんに言いました。この時ばかりは本気だなあと悟りました。

龍二さんは「ちょっと冷静になってくれよ」となだめて

SPになるために柔道や空手をしてきて空手は5段の腕前だった
のですが母親の気持ちを聞いてみたのです

「それじゃあ、どうすればいいんだよ」と聞くと
「相撲しかないだろう」と母親が言うので「相撲かよ」
ということなんですが相撲なんか未経験でした。
一度もやったことがないのですが龍二さんは母親の涙を
始めてみて、親孝行になるんだったら、と思い、

「わかった、じゃあ相撲やろう」と返事をしたそうです
この時のことを千代大海は「いま変われ!という“天の声”
のようなものが聞こえたんです。」と話しています。
「おふくろが望む行き先は力士だな」と確認すると「そうだ」
といい、お母さんはものすごく喜ばれたそうです。小学生の頃
から相撲のスカウトはいろいろあったそうで、その頃は「早く帰れ」
と追い返していたのです。
相撲のことは何も知らなかったのですが唯一千代の富士だけは知って
いたし、「じゃあ一番強い人のところに行こう」ということで会いに
行くことにしました

「私に出刃包丁を突きつけられているようじゃSP失格だろう」って
あとでお母さんに言われたそうです

そして、お母さんは龍二さんの気が変わらないうちに翌月の11月に
福岡場所で福岡にいる千代の富士のいる九重部屋に電話したということです
その時、千代の富士が引退して1年後ということで
平成4年の11月というタイミングもぴったりの時でした

「すぐこい!」と千代の富士に言われて九重部屋に向かう親子でした

千代の富士(ウルフ)との出会い

龍二さんは金髪に剃り込みを入れ、リーゼントでバッチリと決めて
母といとこのお兄さんと3人で千代の富士のいる九重部屋に出かけました
母と龍二さんと二人で九重親方の部屋に通されて
元横綱の千代の富士がいる部屋に入るとあぐらをかいて
座っている千代の富士がいました。後ろから日の光がさしていて
後光がさしているように見えたのです。
「あんちゃん座れ」と千代の富士から言われて
緊張して正座して握りこぶしを膝の上に置いていると、母は
ニコニコして「千代の富士がいる、、」と嬉しそうでした
その時はまだ1年前まで現役の横綱だった千代の富士でしたので
体も大きくて眼光が鋭かったのです。

今まで多くの不良やヤクザ、暴走族と出会ってきたが
千代の富士は全く違う感覚で「この人には殺されるなという
恐怖心がわきました」というのが第一印象だったと龍二さんは感じました

その時のことを千代大海は檻のない場所でライオンと
遭遇した感覚だと話していました
「やっぱりすごいな、千代の富士は!」と圧倒された
龍二さんでした。

初めて対面した際の会話

千代の富士と初めてであって千代の富士に聞かれたことは
「あんちゃん、何しに来たの?」と聞かれたので

「相撲界に入りたいです」と龍二さんは答えたそうです
千代の富士は「どうして?」と聞かれるので

「親孝行がしたいです」と答えるとそれまで眉間にしわを寄せていた
千代の富士が、ニコッと笑ったといいいます。そして母親を見て、
「この子は頑張れそうだね」と言われたのです
これで入門が決まったと思ったんですが

「ありがとうございます!」と答えるとまた表情が険しくなって
『すごい髪形だな』


「その前に、まずその頭をどうにかしてこい!」と言われたので
「え! これダメっすか。はい、わかりました」とすぐ返事をしてl
大分に帰って頭を剃り、次の日の朝もう一度出直したら、
千代の富士は「剃ることはないだろ!」と言いながらも喜んで
いたんです。そして今までの自分とはきっぱりとけじめをつけて
この人の下で一からやり直そう、いままでの自分とはもう違うんだ
という気持ちで、頭を丸めてリセットしたのでした

入門初日に味わう感激


こうして相撲界に入り始めて感激したことは番付の仕組みで序の口から
横綱まで番付があることを初めて知り、番付の仕組みを1日で覚えました、
なんてすばらしい世界だ俺が来たかったのはここだ!
北海道から沖縄まで強いやつらが集まって来るなんてすごいところだと

強くなればいいんだということと勝てばお金がもらえるんだ!
と今まで喧嘩で勝っても金なんかもらえないのにモチベーションが一気に
高まり、感激して夜も寝付かれなかったのです

不良時代に他県へ“遠征”に行っていたときの感覚です。
恐怖心はなく、やればやるほど母も喜ぶし、
この力で成り上がっていこうと心に誓いました。

柔道と空手の実力を生かして千代大海の決まり手である
突っ張りの破壊力はすさまじく人気力士になりました

龍二さんは2年8カ月で関取に昇進して初めて新十両に上がった時は
給料を封を開けずに大分にいるお母さんに送りました
母親の美恵さんはさぞかし嬉しかったでしょう

千代の富士に恩返し

千代大海が師匠の千代の富士に恩返しができたのは
横綱の貴乃花を倒しての金星ですね、師匠を引退に追いこんだ
敵を討つことができたことです。見てくださいこの突っ張り!、すごいでしょ!

現役時代に引導を渡された親父(師匠)の敵討ちだと思って
挑んだ横綱の貴乃花から2回目の対戦で勝った金星は
千代の富士も大喜びで顔を真っ赤にしたのです
懸賞金を師匠に渡したら、その倍くらいの金額をご祝儀で
くれたそうです

平成11年(1999年)1月24日、初場所では横綱・若乃花との
優勝決定戦を制して初優勝しました
初優勝を果たし、師匠の九重親方から優勝旗を受ける千代大海
ですが渡す九重親方もどれほど嬉しかったことでしょう

千代大海の引退と母親

2010年1月13日に千代大海は17年間の土俵人生にピリオドを
うちました。
2009年11月に母親の須藤美恵さんは「体がガタガタだ」と漏らす
千代大海に「そろそろかな」と感じていてテレビを見ながら
「何とか頑張って、とにかく勝ち越せばいい」と応援して
いたが歯がゆくなって「わたしが行ってとってきてやろうかい」
と言うこともあったといいます。やはり、熱い性格はお母さん
から引き継いでいるのでしょう。
それにしてもお母さんの言うことをきいて相撲に進んで本当に良かったですよね

美恵さんは息子のことを本に書いていて「千代大海ツッパリ一番」と
いうタイトルです

千代大海は34歳の引退ならびに年寄「佐ノ山」襲名
披露の時には断髪式では入門のきっかけをつくってくれたおふくろに、
何が何でもはさみを入れてほしいと思ったといいます

「男だろ?前を見て、歩かんかい」と気合を入れた母親に
千代大海は感謝しかありません

大分市の実家では、母親の須藤美恵さんが元大関
を「ご苦労様でした」とねぎらいました。

師匠との別れ


ウルフ千代の富士は2016年7月にこの世を去りました
九重親方は7月24日に千秋楽を迎えた名古屋場所に
も帯同し、若手を指導していたのですが急遽体調を悪くして
帰郷した矢先だったということです。
最後まで相撲に命をかけていました。
千代大海はl
「師匠のことは血は繋がっていなくても、父親だと思っていた。
遺体の手を握り、『お世話になりました』と伝えました

「親方の死を力に変えて、みんなで部屋をもり立てていきたい」
と語っていました

千代大海は大関を65場所も務めて引退するのですが
不良から大関という人生が180度変えることができたのも母と
千代の富士のおかげでしょう
引退時に以下のような名言を残しています

「一つ目標を持てば、人生が変わることもある。若い人にそれを伝えたい」
これからは千代大海は師匠千代の富士の迫力に負けないような親方になっていくでしょう

最後までお読みいただきましてありがとうございました