中尊寺金色堂が黄金の理由
中尊寺金色堂は平安時代の1124年(天治元年)奥州藤原氏初代清衡公によって建てられたのですが建物の特徴は「皆金色」と言われる内装と外装が金箔があたり一面に施されていて金ぴかの建物なんです。
(天治は平安時代の1124年から1126年まで、崇徳(すとく)天皇のときのたった2年の元号)
中尊寺金色堂がある岩手県平泉の奥州藤原氏は約100年に渡り平和な日々を過ごし、浄土文化を築いていくのでした。地方の一政権がなぜ、このように超豪華で「皆金色」という建築ができたのでしょうか?
藤原清衡が金色堂を建立できた理由
当時の都は京都でしたが奥州の藤原氏がこのような贅沢の極みといわれる金色堂が建てられた理由が奥州の資源である「馬、金、鷲羽」でした。
特に金の産出量は古くから東北地方は8~16世紀にかけては宮城県の気仙沼一帯で大量に採掘されていて東北地方の一帯を支配していた藤原氏初代清衡は中尊寺金色堂の建築に気仙沼の金が使われていて権力を高めていくのに朝廷に献上したり、中国(宋)との貿易で多額の利益を手に入れることができました。
藤原氏初代清衡公は奥州の貴重な資源である金を大量に扱うことができたから黄金の金色堂を立てることができたのです。
当時の奥州の平泉の藤原氏は中国・宋との貿易を京都を通さずに直接のルートでつながっていたので独立した国のような存在だったのです。
だから宋との交流が盛んで四耳壺(しじこ)、水注など高級品が現在出土されているのです。朝廷よりも経済的には豊かで財力があったのです。
中尊寺金色堂のミイラは誰なの?一般公開はいつ?
中尊寺金色堂には3体のミイラが安置されているのですがそれが誰なのかというと。
ミイラは藤原清衡、基衡、秀衡のものがそれぞれ「中央壇」「左壇」「右壇」の3つの須弥壇と呼ばれるところに安置されているのです。
3代にわたりなぜミイラになったのかというとこれは中国の思想で「中国仏教の『生身往生』という教えがあったからで日本国内では他にはこのように3代にわたりミイラが現存している実例がないのです。
奥州の藤原氏は中国文化を深く親しんでいたことが推測できます。
藤原三代のミイラを一般の方が見ることはできませんので一般公開はされておりません
ただ、昔は一般公開をしていたころもあったそうですが劣化が激しくなって中止になぅたという声もありましたので重要な世界遺産なので今後は一般公開はされないと思います。
中尊寺金色堂のミイラは誰?
岩手県平泉町の中尊寺金色堂には初代から四代までのミイラが残されているのですが
昭和25(1950)年東北帝国大学名誉教授の長谷部言人氏が団長となり、「藤原氏遺体学術調査団」がミイラの調査を行いました。
初代:藤原清衡
第2代:藤原基衡
第3代:藤原秀衡
第4代:藤原泰衡
東京大学理学部人類学教室助教授(当時)の鈴木 尚氏が人類学的に調査しました。
4体のミイラについて鈴木 尚と長谷部言人は、これらのミイラは人工的ではなく自然にできたミイラだと推定しています。
4代の藤原忠衡の首だけのミイラは調査の結果、眉間から後頭部にかけて八寸釘(約24cm)が打ち付けられており首を切断するのに太刀を使って5回切り損ねていてあと2階振り下ろしてようやく切断したことも調査の末推測したのです。
これで奥州の藤原氏の時代に幕が下ろされたんですね。
中尊寺へのアクセス
中尊寺の最寄り駅は平泉駅。また新幹線発着駅は一ノ関駅です。
平泉駅からは岩手県交通イオン前沢店行に乗り4分です。
平泉駅から中尊寺は3つ目のバス停ですのですぐに到着ですが1時間に1本ですので
時刻表をよく確認しておきましょう。
また、徒歩だと中尊寺表門までは1.5キロあるので20分かかるのでレンタサイクルも便利です。ゴールドレンタ平泉がおすすめです。
まとめ
中尊寺金色堂が黄金の理由は平泉には豊富な資源があって中国(宋)との交易が盛んで直接行けるルートが確立していて日本の中でも平安時代の都である京都とは別に独立した国としての交流ができていたので黄金に輝く「皆金色」という中国の建築技術がふんだんに取り入れることができたのですね。
奥州藤原氏のミイラは4体あり初代藤原清衡から4代藤原泰衡までが中尊寺金色堂には収蔵されています。
一般公開はまだできませんが画像は確認できます。
最後までお読みいただきありがとうございました。
ミイラは須弥壇というところに安置されています。
須弥壇は本尊を安置する場所で仏の領域とされている場所だそうですがこの須弥壇の下にミイラが収蔵されているのです。
引用元:https://hirotravel.com/